いやはや、社会活動再開に向けて色々な動きもある中ですが、お元気ですか?
私も先日、育った家にいる父母を、犬とともに久しぶりに訪ねて来たのですが、そういう「自粛ムード」から「再開ムード」への切り替え、けれど「コロナウィルスはどこに潜んでいるかわからない」ということでマスク着用のみならず、スーパーのレジや窓口などではアクリル板や透明カーテンでの間仕切り、手渡ししないカードやお金のやり取りが新たな常識という、なんとも微妙な世の中です。
そこでテレビやラジオ、あるいはネットなどでも「これからの「コロナ時代」はどんな世の中になるか」というテーマで、あちこち語られているのですが……私はどれを見ても聴いても、どうも、納得行かないというか、しっくり来ないのですね……現実見えてないんじゃない??みたいな。
そこで、今回は余興?みたいなものかもしれませんが、今から20年ほど前のダイオキシン騒動や今から15年ほど前の土壌汚染問題という、異例というほど膨大な国費が費やされ体制整備も一気に進んだけど、以前に比べて世の中どれほど良くなった?不幸な人はちゃんと減った?的な疑問満載な社会問題の現場の第一線にどっぷり漬かっていた経験も踏まえつつ、リアルなこれからの世の中予測を書いてみようかと。
思い切り毒舌の記事ですが、薪ストーブのブログですから、最後に薪ストーブの話も少し(笑)しますので、よろしければ最後までお付き合いくださいませ。
まずこれから、無観客試合だとか、席の間隔を空けて一度に利用できる人数を半分以下にするなど、事業者側にとっては死活問題というほど大きな経済活動への制約のもと、社会の中で自分には身近でもないところで(交通事故で死んでしまう人に、実際のところなかなか縁がないのと同じ)発生するコロナウィルス感染とずっと付き合わされることになります。それがコロナ時代の表面的な特徴です。
で、そもそも論ですが、コロナウィルス感染対策って、どれほど力を入れるべきか?という社会的ゴール設定が大切だと思っていて、実際に世界中で沢山の人が亡くなっているというニュース性こそありますが、インフルエンザに代表される感染症というリスクでのゴール設定で一定数亡くなる前提は「普通のこと」だと思うのです。社会的には一定程度許容しなければ仕方ないリスク、ということです。人間が生き物である限り。
例年のインフルエンザの感染者数は、国内で推定約1000万人いると言われています。
国内の2000年以降の死因別死亡者数では、年間でインフルエンザによる死亡数は214(2001年)~1818(2005年)人です。
新型コロナは確かにクラスターで一気に感染拡大するとか、急激に症状が悪化して対応できないなど、社会全体を危機に陥れるような「明らかに特殊・特別」な性質はあるのですが、新型コロナに一定数感染して、一定数お亡くなりになってしまうこと自体をゼロにしようというのは感染症への社会的リスク対策として不合理です。
そこで新型コロナへの対策として設定すべきゴールは「明らかに特殊・特別」な性質を、普通の感染症への社会的リスク対策の範囲内に収められる程度にコントロールできるようにしましょう、ということになるべきはずなのですが……
そのような、言ってみれば小手先的な対処も容易な「明らかに特殊・特別」な問題なのに、実際に世の中で行われている感染拡大防止対策、ゴール設定は「とにかく感染ゼロ」みたいな。こういう国のやり方って、ダイオキシン問題や土壌汚染問題の現場に居た私に言わせると既視感満載でして……
すなわち、この国は、決して「リスクの真実」を深堀しないのです。ちゃんとしたソツのない対策のようにみえて、「特殊・特別」への対応は行われず、全体ボリュームこそ特別なんですが、対策の内容は、あくまでも「万遍なく」「一律」「万全」なのです。今回も「新型コロナならでは」でなく、どんな感染症や社会的問題に対しても行われるような内容。
悪く言えば、膨大な社会的資源を投入し、多くの人に負担をかけた割には、本当に必要なところに資源(ヒト、モノ、カネ)が行き届き、効果が表れるきめ細かな対策や支援が行われることもないという……すなわち、メリハリの効いた「スポットの対策」とは、程遠い内容でした。
人生の身近な問題でも、たとえば入試とか、資格試験とか、定期試験でもいいですが、その対策とか考えてみて欲しいのですが、よほど自分の学力とかが、試験出題レベルを余裕で上回っていれば別ですが、「万遍なく」「一律」で真面目に万全に頑張って、それで効果的な結果をあげることなんて、まず無理じゃなかったでしょうか??
出題を予測したりとか、捨てるところと絶対取るところを峻別するとか、そんなスポット的な努力の方が実際はよほど有効に効果として表れたとか、ないですか??それを「どこが出題されるか、調べている時間もないから、そんなことしている時間があったらとにかく全範囲勉強」とかやって、勝ち目ってあるでしょうか?
今般のコロナ対策は、支援すべき対象を選別している時間的余裕がない、という事情はあったにせよ、実際は困窮の度合いには、かなり激しい凸凹がありました。一部の人が今日、明日のレベルでとても困っていて、あとは自粛の影響がこれから出てくるとはいえ、大多数の人々は今日、明日は別に困っていない……それでも結局は「一律」となりました。選択と集中の逆。
一律となった結果、恩恵に預かる人が圧倒的に増えたので反対はなかったですが(ツケを負わされるのは将来世代ですから)、一方で、本当に支援を必要としている、あるいは世の中にとって本当に重要な「守備範囲」で身を粉にして奮闘して頂いた方々には、必要なタイミングで、必要な程度の支援として届くことは、事実上ほとんどありませんでした。一律というのは公平公正ですから。
高い使命感というのは本質的に仕事の対象(看護師さんなら患者)への思いであり、それが強いことが仕事を遂行する現場を支えているわけだけど、なまじ現場が自らの強い思いで献身的に仕事してくれるからと放っておかれたら辞めたくなるのも当然。制度の狭間で苦しまないよう、きめ細かな支援がないと https://t.co/YhsJe6CsrG
— 大屋@薪ストーブ事業 (@aiken_makiss) 2020年6月11日。
本質的に、責任者自らがリスクの真実を深堀りし(だから「現場」「現物」「現実」なのです、常に。今回は、手間とリスクの高いPCR検査を行っても感染が正確に検出できないことが最大の問題でした)、世間(一般のその他大勢)から責められても、真実に基づき、自らの責任で大胆に「差別」「特別扱い」をしなければ、有効な対策になり得ないのです。
で、今回、真実を深堀しないままで一律の対策をやったために、社会的サポートがもともと弱くて、社会全体のためにも支援が必要だった部分はますます疲弊した結果になったわけですが、でも一律がゆえに「良いこと」もなかったわけでもありません。
すなわち、大規模な社会的自粛が行われたため、テレワークやオンライン会議が進みました。これを機会に、世の中の働き方が変わって、より効率的になる部分もあるかと期待されています。少なくとも通勤のための移動時間がなくなれば、本当の本当にラクです、それは私自身も実体験として保証します。
でも私は、コロナをきっかけにテレワークが一気に普及するとか、世の中が良くなるような見通しについては、ほとんど期待できないと思っています。
もし、すでに5G通信規格が当たり前とか、もっと情報通信技術の基盤が進んでいれば、そして自動化AIなどが進歩していれば良かったのかもしれませんが、今の程度の情報通信では、次のような場面でしか使えないと思います。
- 要求される関係の深さに照らしてお互いの人間への信頼性が既に充分であり、「わかりあっている」ことが前提のやり取り(オンライン飲み会みたいなもの)
- 人間的な信頼性が基本的に無関係な、ただの事務手続きなど形式的な業務処理や知識の伝達のようなやり取り(教育も表面的ならこれにあたる)
- 人間的な信頼性が全く期待できないと割り切りながら、必要に迫られて仕方なく行う事務的なやり取り
つまり表面的な意思疎通というか、信頼がすでにある相手同士や、あるいは、分かり合えるはずないと割り切って実務的なことだけを交渉するだけのときならオンライン会議方式でなんとかなるかもしれませんが……
相互の人間的な信頼性について「探らなくてもいい」やり取りなんて、実際の仕事の中でもごく一部しかないと思います(それで済むなら、ぶっちゃけ、会議そのものがいらない)。
テレワークが進むことで通勤の移動時間がなくなるとかはすごく大きな社会的メリットですが、それはリモートやオンライン方式といった情報通信技術論とは本質的に異なる「管理の方法論」の問題であって、コロナに関係なくやろうと思えばいつでも出来たし、「管理の方法論」をより有効なものにしようと本気で考える能力のある管理者がいる会社なら、すでにやっているかと。
あるいはオンライン会議では、人間性に基づいた関係構築の性質が薄まる分、若手が思い切った意見を言える傾向にもあったとは思いますが、本来は人事考課制度を中心とする「企業風土」の問題であって、せいぜい「見直すきっかけ」にしかならず、日本の会社の現実に照らせば、実際に見直されることはほとんどないだろうと、私はみます。
結局、ここまで何が言いたいかと言いますと「このピンチをチャンスに」「世の中を変えていくきっかけに」とか、それは絵空事で、トップや管理者が変わらない以上、世の中にとって良い変化は殆どないだろうと思うのです。
そしてトップや管理者は、今回の新型コロナ対策でも変わることはありません。何故ならば、幸か不幸か、新型コロナウィルス感染症って、少なくとも東アジア社会にとっては「大したこと」ないから。
すなわち建前では「一律で」「万全」ということで経済的に大きな制約を伴う感染拡大防止対策が求められていますが、そんな感染防止対策が本当の本当に必要というのが真実なら、テレワークもオンライン会議も仕方なくでも一気に進むと思います。強制的な危機管理として。
しかし、実際には、感染拡大防止対策は、建前だけの、おざなりな重荷にしかなりません。なぜならコロナウィルスは次のような限られたケースでしか実際には(社会的に検出される程度に)感染拡大していませんから。
- 飛沫が大量かつ勢いよく飛ぶような発声が、室内空間で行われる
- 飛沫が飛ぶ場所にコップやオツマミなど直接ないし間接的に口に運ばれるアイテムがあって、例えば恋人のような濃密な感じで共有される
逆に言えば、これらの特殊な条件が整ってさえくれば、極端というくらいに強力な感染力を発揮させますが(その場に居合わせた全員が一気にアウト、みたいな)、本質的には「消えやすいウィルス」です、「8割おじさん」こと北大の西浦教授の言葉を借りれば。
もう、尊敬の意味を込めて、当ブログでは何度も書きますが、社会として、このウィルスにどう対峙するのが適切なのかを如実に示しているのが、あの感染拡大真っただ中の4月4日、不眠不休で感染拡大防止対策を指揮していた「司令官」、東北大の押谷先生によって発せられた言葉です。
いわゆる「3密」の環境にあるホットスポットに行きさえしなければ、東京や大阪で普通の生活をしていて感染するリスクは非常に低いのが現在の状況です。
押谷による『皆様に伝えたいメッセージ』です。
— 新型コロナクラスター対策専門家 (@ClusterJapan) 2020年4月4日
長文ですが、たくさんの方々に読んでいただけたらと思います。 pic.twitter.com/s0jASV6Jrb
新規感染者の報告は日々何百人を数え、東京だけでも百人超え、そして街中には今のようなマスクもフェイスシールドもアクリル板もない「それまでとの暮らしの違いは特にない状態」で、対策の現場のまさに中心に居た専門家が「東京や大阪で普通の生活をしていて感染するリスクは非常に低い」と言っていたのです。現場で真実を把握していたのを無視して根拠のない楽観論を口にするはずもなく、この言葉こそが真実であろうと思います。
つまり、私たちは、せいぜい実際に人が近くにいる状態で声を出すときにはマスクをつける(それ以外の時は、もちろん外しててて良い)程度で良いはずのところを、「黙って映画見るのに客席の利用者を半分に減らしましょう」とか、実際にはまるで不要かつ過剰な足枷を、世の中全体で自らに課しているような状態だと思われるのです。
まとめますと、新型コロナという特殊なリスクの真実を何も深堀りせず、「消えにくい普通のウィルス」に対峙する場合と全く同じような、一律な一般論で対処することにしたために、これから、効果が乏しいだけの建前を律儀に守ろうとするために無意味に消耗し、また経済も大きく足を引っ張られる、そういう長い長い時間を過ごすことになります。これが「コロナ時代」の正体です。
この状態の原因は、第一に政治家の見識の不足にあります。たとえば「政治とは?」という問題。本質的には政治は自らは悪役となって社会にとって一部の犠牲を我慢してもらって、全体の幸せを増そうとする仕事です。
しかし今取られている政策は全く逆の「人気取り」で、社会の未来を担う子供たちは感染してもインフルエンザ等に比べれば全然軽症で大したことないのに、本人たちにとっては迷惑でしかないマスク着用や接触禁止を強いて、高齢者を手厚く保護している、みたいな調子です。
これ、子供たちには学校で全く自由にさせて、もし家に高齢者がいる場合は、ご面倒ですが、高齢者と接する空間の消毒や、会話形態(マスク着用など)に、家庭内では、思い切り気をかけてもらうほうが、よほど社会全体のためだと思うのですが……
さらに、今、コロナをきっかけに世の中では産業が変わる、接触型の宿泊業や飲食業が減り、非接触型のオンラインサービスが大きく伸びていく……なんて言われていますが、人間に対してあまりにも無理解です。そういう無理解が、実際には社会の生産性をどれほど落とすか。
これまで何のために、わざわざ実際に「その場に」足を運び、人そのものや、仕事にリアルに触れ、スポーツ観戦に大声を上げていたのでしょう??五感を使ってリアルに触れることで、普段のストレスを解消し、心を癒して「これで、また、日常を頑張れる」と思える。だからこそ、足を運んでいたはずです。
いくらオンラインサービスのバーチャルリアリティーで世界の絶景を360°カメラで眺めたところで、世の中が進歩したということに感心し、目新しいし簡単便利なので普及はするかもしれませんが、そんなバーチャルリアリティーをオンラインでいくら味わったところで「これで、また、日常を頑張れる」と思える効果なんてありません。
要するに、オンラインサービスがいくら充実しようと、五感で感じて心癒される接触型サービスの代わりにはなり得ず、一方で「利用できる人を半分に」したぶん、接触型サービスのコストは事業維持のためや贅沢品的な論理でコストが上がり(単純には倍のお値段)、人々が「心を癒せる」頻度は減り、社会全体の生産性は落ちざるを得ません。
そのようなわけで、これからのコロナ時代、我が国の政治家にはまるで期待できないし、ましてやそれを是正すべき専門家には、これまでの色んな社会問題でもそうでしたが、本件では「もっと」期待できません(西浦教授には本当に失望しました。ここで述べても鬱陶しいと思うので末尾に後日追記します。私としては押谷先生、カムバーック!!という気持ちです……)。
そして何よりこの国は「多数決」で、ここで書いたような意見の人は極少数派、医療崩壊の危機を免れた今なお、感染拡大防止対策が何より大事だと思っていらっしゃるのが多数派です。そもそもこんなブログ読む人少ないですし(笑)……
私などが今さら言うまでもなく、このたびのコロナ騒動で浮き彫りにされた、こういう日本社会の本質的な欠点もまた、何があっても変わりません。政治家や国民全体だけでなく、企業の経営者も、たぶん、全般には、そんなに賢くないとみた方がいいでしょう(たまに賢い方もいらっしゃいますが)。
冷静に見えて他人へのいらだちを募らせていたり、堅い職業の人が、歌舞伎町やパチンコ店でこっそり気分転換したり、表と裏の二面性がある。プレッシャーの強いストレス社会なのでしょう。また「自分ではない誰かがしてくれる」気持ちが強い。サービスが整いすぎているのが日本の弱さで、知恵や能力を使う機会がなく、自ら考えて動くのが苦手で他責傾向がある。ただ、わかっているのは、この問題は誰かが解決してくれるものではないということです。
結局のところ、このたびの新型コロナ対応を見ている限り、この国の対応として良かったことは押谷先生がピンポイントで進めていた「クラスター対策」と少ないPCR検査資源を有効に活用した保健所と医療現場の頑張り以外に、良かったところは何もなく、これからも全く期待できないだろうと。
期待できないだけでなく、政府も、そもそも世界も「どう出るか」わかったものではありません。つまり世の中どうなるかさっぱりわかりません(たぶん悪くなるほう)。そんな中で頼りになるのは「自分」、そして自分と場面、場面で連帯してくれそうな人だけ、ということになります。
ただ、連帯と言っても、限られた人で、いくら色んなことを考えていたとしても、この多数決の世の中を変えるなんて、現実問題、出来ないということです。だから最後の答えは「自分だけでも正しいことをする」しかないのだと思います。ささやかではあるけど絶対に間違いのないこと、確かなことを、日々重ねるというのが、重要だろうと。
そこで、ようやく、薪ストーブです!!薪ストーブで暮らすことこそ、絶対に間違いのないこと、確かなこと、なのです!!ただし!!煙や臭いのことでご近所さんに迷惑をかけてさえいなければ!!!
aiken-makiss.hatenablog.com ……もう、ここまでで、読むのお疲れ、ヘトヘトでしょう?(笑)薪ストーブの話は、簡潔に行きますね。なんで薪ストーブで暮らすことが「絶対に間違いがないこと」なのか?理由は二つ。
1.五感を日々使って、薪という木の命に触れ続けることで、心が整う
人間は、非接触だ、オンラインだ、リモートだといくら言ったところで、所詮は生々しい生き物です。テレビ画面を通していくら犬を可愛がろうにも、実際に身体じゅう触れて撫で回してもらわなければ、犬としてはさっぱり嬉しくないのと同じくらい、生身の生き物です。
生き物としての強さ、健全性は、五感が最大限発揮されてこそです(もし、どれかの感覚が障害されているなら、それを残された感覚で相当補えるということも含めて)。本当は「食べる」という日々不可欠の動作にしても、自分で実際に他者の「命」を奪うところから始めると、どれだけ五感で学ぶことがあり、それが心に健全な影響(生きる意味、感謝etc)をもたらすか……
さすがに、この忙しく、また分業化された現代社会で、いちいち、動物を狩って(飼育して)食べるために殺して……とかやっていたら身が持ちませんが、暖房&調理のエネルギーである薪を調達してくることくらいなら、現実的に可能です(実際にそれで日々暮らせるかどうかは薪ストーブの機種によりますが……m(__)m)。
冬の毎日は、薪を手にして暖まり、料理を味わい……ということで暮らしますが、それ以外の季節も、木を見ては「あれは良い薪にならないだろうか」とか、捨てられている木を見れば「なんてもったいない!!」とか、心が動きます(笑)
そして、木を切って、割って、乾かして、薪として整えていく作業は、それがどれほど快適な暖かさに、美味しい料理に、一緒に暮らす人の幸せにつながるか、分かっていますから、本当に心が高揚します。また薪の匂いも手触りも、五感で強く感じることで「同じ命」として、森の恵み、木の命のありがたさに、心馳せないわけにはいきません。
そういう「人として、生き物として健全な暮らし」を日々重ねている人にとっては、『知恵や能力を使う機会がなく、自ら考えて動くのが苦手で他責傾向がある。』とか、基本的にあり得ないのです!!
2.捨てられていた、未活用の、活用した方が良いものをエネルギーに変えて具体的に利用することは圧倒的に正しい
自粛で「家にいることで世界を救う」とかありましたが……毒舌すみません、あんなの詭弁だと思います。「動くと邪魔だから、ジッとしてろ」が真相で、やはりジッとして何もしないなんて、動けるものにとっては恥ずかしいことだと、私は思います。
何故ならば、生きている限り「生産」、モノやエネルギー、新たな価値を生み出すことに対して、直接的でも間接的でも「何らかの形」で寄与する「活動」をやらないことには、生きている意味が乏しいと思うから(広い意味での生産活動)。
「活動」として、わかりやすいのは、魚を獲ってくるとか、農作物を育てるとか。根本は太陽エネルギーになるのですが、それを利用して「価値」というか「富」、それで人が幸せになれる食べ物を生み出します。お料理をしたり、小麦粉を使ってパンを焼くことで、食べ物をもっと価値のあるものに変える「活動」もあります。
今のところ石油などの地下資源を新たに掘ってくるのも重要な「活動」だし、太陽光エネルギーを電気や温水に変える(つまり人間が直接利用できる形に変える)設備を作ったり設置したりというのも、わかりやすい「活動」でしょう。新たな「富」が生まれていることになるわけですから。
演劇や音楽だって立派な「活動」です。スポーツで感動させるのも。前述しましたが、それは、音楽なら音楽に触れた誰かが、それによって元気を取り戻し、新たな価値を生む「活動」の現場に、また赴くことができるから。
そんな具合に、人間、生きていて尊いのが、何らかの、本当に様々な形で「活動」ができるということ、「活動」こそ、それが正しいものなら間違いないですが、薪ストーブで暮らすことは、本当にわかりやすい「正しい活動」です。
何しろ、今まで、エネルギーをかけて(ごみ処理施設まで運んで燃やしてとか)処理していた廃棄物や未利用資源を、太陽光を上手に使うことで(乾燥)、新たなエネルギー源に変えて、化石燃料や原子力(電力)以上の圧倒的な価値(富)を生み出す資源に化けさせるわけですから……
ましてや、森林の木を適切に利用することで、暗かった森林内に光が入り、新たな林床植物が生育できるようになり、それを食べる虫、それを食べる鳥たち、あるいは様々な餌資源を利用する哺乳動物……等々、人間社会以外の自然界全体での富すら、増大させる可能性があるわけですから。
さらに言えば、森林保全は、近年の猛烈化する豪雨災害に対して、ささやかでも河川流量の増加遅延による洪水ピークカット効果もありまして……薪ストーブで暮らすことは、まさに、いいこと尽くしなのです!!註;何度も言いますが、煙と臭いでご近所さんに辛い思いをさせていない限り
以上、これからのコロナ時代は、相当不透明で、足踏みする時代になると思いますので、薪ストーブ(で実際に暮らすこと)は、これから、本当に重要な意味を持ってきますよ、ということで……
久しぶりに、というか今回も?毒舌いっぱいの「大屋ワールド」(と言われてきました、なんだかんやで)全開になりましたので、冒頭写真も「そういう記事」として著者近影とさせていただきましたm(__)m
いや、おつかれでしたでしょう??でも世間の「これからは非接触型のオンライン型サービスだ」とか、そういうありきたりな流れに一切?与することなく、いつも「本当に大切なこと・モノゴトの本質」というのを日夜追及し、公表しておりますので、もし、今回のような考察がお気に召して頂いたなら、薪ストーブに関係なく、例えば以下の記事とかもどうぞ♪
aiken-makiss.hatenablog.com それではまた!とにかくお元気で!!
【2020年6月15日追記;西浦教授の残念なところ】
この↑長い長い、冗長な記事を一段落でまとめてしまうと
「新型コロナウィルスが社会全体に影響を及ぼす実際のリスクの大きさに対して、取られている対策が意味もなく過剰過ぎて社会全体の足を引っ張るものでしかない。こんなことではお話にならない。それは物事を真実ではなく「一律」「一般論」で捉えて、対処しようとする日本社会の特性から来ており、政治家も専門家もダメダメで、是正される見通しは何もない。」
ということなのですが、私自身は、もちろん政策決定者とは無縁で、専門家のはしくれとして社会の中で仕事をしてきました。そこで、現在の状況に対して、専門家、とりわけ「8割おじさん」を名乗って奮闘された北大の西浦教授の影響が、結果的にあまりに大きく、まずい方向に効いてしまっていることに対してモノを申したく。
まず、私などが言うまでもなく、日本の新型コロナウィルスへの対策が過剰ではなかったのか?という疑問は、すでに多くの方から提示されており、ご本人の見解としても出されています。本追記も、まさにそこから議論を展開させます。
www.newsweekjapan.jp 私が、専門家としての西浦教授に対して、根本的に問題視しているのが、5月6日の連休明けの緊急事態宣言延長の判断ですが(緊急事態宣言に伴う「8割減」を4月上旬当時として提唱したこと自体はやむを得ないというか、むしろ評価)、そこに対して、西浦教授は、記事の中で緊急事態宣言延長の意義を、このように説明します。
感染者が一定数残るなかで解除すると、感染者数が再び増加しない保証は一切ない。むしろ、そのようなケースが韓国やドイツで見られている。緊急事態宣言下では社会全体で接触を削減できており、営業自粛によってハイリスクな場が閉鎖されていた。
この「社会全体で接触を低減できており」というのは、彼の学問の主題である「数理モデル」を社会に適用した効果であり、「営業自粛によってハイリスクな場が閉鎖されていた」というのは、具体的は、今ようやく注目されている「夜の街クラスター」が発生抑制されている状態のことと考えることができます。
では、この「社会全体で接触を低減する」ということと「夜の街クラスター対策」は、対策として一体で不可分でしょうか?
ちょっと考えれば、政策として本質的に切り分けが充分可能なことは自明です(要するに「一律」ということを辞め、重点扱いにさえすればいい)。そこで本来なら、どちらの対策の方が有効に効いたのか??を判断し、社会的にデメリット(副作用)が多い対策は、中止を提言するのが専門家としての本来の仕事であるはずです。
ところが、この部分に関して、西浦教授が何か努力したことは、何もなかったのではないか?むしろ、自らの学問の主題である「数理モデル」の社会適用の継続を目的化したのではないか?とすら思えてならないのです。「研究あって社会なし」。
ここで改めて「社会全体で接触を低減する」と「夜の街クラスター対策」の、果たしてどちらが支配的に効果を発揮したか??ということを検証するために、時系列データを見ると
出典;西浦×國井 対談「日本のコロナ対策は過剰だったのか」 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイトより
3月25日あたりから急激に感染者数は減少し、実効再生産数も減っていることが読み取れます。3月25日といえば「社会全体で接触を低減する」という取り組みは殆どなされておらず、小池都知事が会見で次のように発言した「だけ」でした。
そして今週になりまして、オーバーシュート・感染爆発でございますが、この懸念がさらに高まっております。今、まさに重要な局面でございます。都民の皆様方にはこのことをくれぐれもご理解いただきまして、平日につきましては、できるだけお仕事の際はご自宅で行っていただきたい。もちろん職種にもよりますが。それから夜間の外出についてもお控えいただきたいと存じます。この週末でございますが、お急ぎでない外出は是非とも控えていただくようにお願いを申し上げます。
www.metro.tokyo.lg.jp 百歩譲って、この小池都知事による呼びかけが、直ちに、極めて有効に機能した(グラフからはそうなります)としても、それは「夜の街自粛」程度であり(これも実際はかなり疑わしいですが)、「社会全体で接触を低減する」は、まだ全くというほど効いていなかった(もし効いていたとしても週末の29日の大雪から)と考えられます。
それは、私に限らず、当時の世の中の人々の行動を思い出してみれば、誰が考えて自然と思うのですがいかがでしょう?行動以前にせめて人々の意識だけでも変わる「きっかけ」になったのは、25日のピークアウトからさらに5日間も遅い30日の志村けんさんの訃報からでした。
つまり、それまでに行われていた程度の「三密を避ける」取り組みだけで、感染拡大防止効果としては充分だったと、時系列的には考えられるわけです。
もう少し踏み込んだデータの解釈としては、3月25日までの増加や、実効再生産数として最大瞬間風速ぐらいの水準で数日の間だけ2.5のピークがあったのは、単に帰国者がウィルスを持ち込んで無症状のまま警戒薄く感染拡大行動をしていただけで、新たに帰国する人がなくなり、あるいは帰国後「あ、気をつけなきゃ」という程度に行動を改めるようになれば「それ以上、特に何もしなくても」感染拡大としては急激に勢いを失っていったとみる方が、当時の社会の状況から考えて最も自然ではないかと。
あるいは、帰国者が帰国直後に接触した相手として自分よりも高齢者が多ければ、高齢者が感染したほうがうつしやすく、2次感染が起こるので、その帰国者→高齢者への感染タイミングだけ、実行再生産数のピークが生じるのかもしれませんが……
いずれにせよ、世の中の当時の実際の状況を丁寧に辿りながら時系列データを検証する限り、「社会全体で接触を低減する」取り組みが実際に始まる以前、つまり「三密を避ける」以上の対策は何も取らない従前からの状態のままで、感染拡大としては急激に勢いを失っていったのは、結果としては明らかと言わざるを得ないと考えられるのです。
しかし、西浦教授は、この感染者数が減少していった理由について、今なお、このように述べるのです。
オリンピックが延期されることになった3月24日あたりから、小池百合子都知事がイベント自粛の要請など、どんどん手を打ってくれて、それに従って実効再生産数が落ちていきます。さらに、国の緊急事態宣言が出た後は、都市も地方も含めて皆さんが協力的に接触を削減してくれた成果もはっきり出ました。
news.yahoo.co.jp この後段の「さらに」から先の説明は、私は、それを示すデータを特には存じ上げないのですが、最も急激な減少傾向への変化があった3月25日あたりを「小池都知事が手を打ったから」と解釈するのは、社会の人々が、それで実際にすぐに行動変容したか?として考えたとき、やっぱり、相当無理があると言わざるを得ないと思うのです。
結局、緊急事態宣言前の感染の消長の結果を見ると、西浦教授の扱う数理モデルで定量化でき、国民に8割削減努力を求めたような一般的な「接触」と、実際の感染拡大や収束がリンクしているというエビデンスは、社会への影響が極めて大きい政策の決定に資するほど説得力のあるものとしては、全くというほど見当たらず、百歩譲って「夜の街自粛」が緊急事態宣言での効果だったかと。
つまり、本件の3月25日あたりをピークとする感染者数の増減を、西浦教授のツールである一般的な接触回数に依存する接触率モデルで説明するには無理があり、むしろ、それまでに西浦教授自身も十分把握していた
このウイルスはやはり絶滅しやすくて、勝手に消えていく性質があることを強く感じました
出典;上記「「8割おじさん」のクラスター対策班戦記【前編】~ 厚労省のビルから北大の研究室に戻るにあたり伝えたいこと(中央公論) - Yahoo!ニュースより
という説明の方が、よほど合理的ではないかと。勝手に消えていく性質があるから勝手に消えたと。
よって、5月6日の連休明けの緊急事態宣言延長の判断の時点では、本来なら虚心坦懐で初心に立ち返り、学者として残念であろうけど接触率モデルの本件での社会適用の有用性を棚上げし、連休明け以降は誰の目にも明らかになっていた経済への影響に配慮して、せめて「夜の街自粛のみ継続」に留めるよう提言するのが、社会への影響力を持ってしまった専門家として適切ではなかったかと。
今、起こっている「リスクに対して過剰な対策」は、「人との接触8割削減」を唱えた専門家当事者が、「社会全体で接触を低減する」が感染拡大防止に実際に寄与したのかどうか?感染者数がピークアウトした当時の社会の人々の行動の現実を踏まえた誠実な総括を行わなかったことで、「社会全体で接触を低減する」が、あたかも「実際に」極めて有効であったかのように多数に誤認されているために生じていると考えます。
今、行われている「観客席の利用者数を半分までに」などの対策が「実際に必要な対策」で、ちょっと緩めると感染拡大が市中で現に認められるなら「社会全体で接触を低減」は説得力がありますが、実際に認められる感染拡大は「三密回避」を守らないままでカラオケとか、濃厚接待とか、そんな事例ばかりです。その一方で、「社会全体で接触を低減する」ことの副作用は、今後ますます深刻になっていきます。
これでは専門家の言うことなど、これから誰も信用しなくなってしまうでしょう。真実に真摯に向き合っていないので当然ではあるのですが……なお、西浦教授に対する批判としては、緊急事態宣言延長よりむしろ「何もしなかった場合の死者数42万人」のほうが世間一般みたいですが、これに対しては、西浦教授はこのような見解を出されています。ご興味あればどうぞ。
www.newsweekjapan.jp ちなみに、この記事の中では西浦教授は
日本におけるクラスター対策では1人当たりの感染者が生み出す2次感染者数にはバラつきが大きく、屋内の密な接触を伴う環境での2次感染者数が多いことに注目してきた。そのような個体レベルで認められる伝播の異質性を「個体別異質性」と呼ぶが、それを加味した場合の集団免疫閾値は、単一集団で計算するよりも低くなることが最近になってやっと示された。
というように、いわば他人事のように仰ってますが、この個体レベルで認められる伝播の異質性の影響を、ご自身の単純な接触率に基づく数理モデルの「誤差要因」「限界要因」として加味すべきとは考えなかったのだろうか?(駅の改札を通過する人を数えて何の意味があったのだろうか?)と、私などは疑問に思えて仕方ないのですが………
それはともかくとして、もう一つ、西浦教授の現時点での見解として、専門家の端くれの私からみて、受け入れ難い発言があります。
「自分の立場はただの兵隊の1人ですので、これから戦いが始まる時に、『42万人亡くなります』と、司令官側が『公式ではない』と言うような数字を言うのはおかしいんです。むしろ、司令官がちゃんとそれを言った上で、だからみんなこうするぞ、みたいなことを言わないと。だから、理想的なのは総理大臣が、国民の皆さんに向かって、原稿を読まず、心から語りかけることだったと思います。
news.yahoo.co.jp 「人との接触8割削減」を含む、自らの提案内容の正当性については、西浦教授はずっと「正当である」という主張を崩していないので、あくまでもコミュニケーション、「伝え方」の問題として、語っていらっしゃるのですが、同じ記事で、こんなことも仰ってます。
「専門家の僕たちが、直接にリスク管理の話をし過ぎるというのは決して良くないと思っています。僕たちは、あくまでもリスク評価のデータ分析をして結果を出すところまでが専門で、リスク管理はしっかりと政治にお返ししますよという形を作らないと」
これらの発言は、本質的には正しい指摘であり、そうあるべき、ではあるのですが、たいてい、そんな「理想的」には行かないものです。実際の政治には、人々に訴える力も、実際のリスク管理を立案する能力も、まるでなかったわけです。それはよくよくわかっていたはず。そこで使命感から前に出て、結果的に何が起こったか。
私は、本質的には西浦教授には何も責任はないけど、専門家として自らの提言したリスク管理がそのまま実行されてしまった以上、結果については、道義的責任を負わなければならないし、少なくとも今さら「立場上、一兵卒だった」として評論家・他人事のように責任問題について語るのは、専門家へ世間一般からの信頼性を著しく下げる(今後、何を言っても「言っているだけと捉えられる」)ことにつながると思うのです。
結果に関して、今さらそのように「逃げる」のなら、最初から前に出るべきではなかったと。そんなことでは、専門家が本当に緊急時だからと前に出て聞いてもらえるのは一度だけ。ご本人が記事の中で心配しているとおりです。
以上、私の失望は、結局のところ西浦教授は、思わず前には出てしまったけど、専門家としてあまりにも凡庸だったと。あまりにもありふれた「普通の」(覚悟の乏しい)専門家でした。我が国が幸運ではなかったのは、重要な時、重要なポジションに「その程度の普通の人」しか居合わせなかったことだと思うのです。無給で不眠不休で頑張って頂いて、決して悪い人ではないのでしょうけど……
重要な時に、凡庸な専門家による凡庸な提案が強引になされたことで、社会全体の経済が長期にわたって大きく棄損される結果となりました。そして真実に真摯に向き合わず、結果責任を取らないことにより、次、本当に専門家による直接的なリーダーシップが必要になったときも、世の中は誰も言うことを聴いてくれないでしょう。専門家のはしくれとして、社会における専門家のあり方として忸怩たる思いを、私は抱いております。
相当長くなりましたが「追記」は以上です。お目汚し、大変申し訳ありませんでしたm(__)m