超簡単薪ストーブ調理

当社で販売している薪ストーブで、どんな冬の暮らしが待っているかを紹介しているブログです。  興味を持って頂けましたらぜひお問い合わせ下さい

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『制作者ならではの思い』=『言語化して共有することが困難な細部の膨大な積み重ね』にこそ、物事の真価が宿る

 冒頭写真、私のツィッターの個人アカウントをもとに、生成AIが作成してくれた私のイメージ画像です。私はAI何も操作できないので作れませんが、ツィッターで私のお友達になって下さっている無茶苦茶仕事のデキる方が作ってくれました。

 いや本人がいうのもなんですが、ちょっと腹が出てて……そんな身体管理で管楽器プレイヤーとしては大丈夫か?(私の理解では管楽器プレイヤーというのはアスリートに近い)と思う以外は、なかなか格好良い魅力的な人物に見えて「そりゃ、こうだったらいいんだけどね」と、現実の自分の外見のショボさを残念に思います(笑)

 そんなわけで昨年がいわゆる「生成AI元年」、今年は「AIエージェント元年」だそうです。

diamond.jp この記事↑では、生成AIのもたらす、これからの働き方について

 人間は、「AIが仕事を奪う!」と心配するのではなく、より付加価値の高い業務にシフトする必要がある。たとえば、デジタルマーケティングではショート動画制作の自動化がさらに進み、AIがシナリオや映像演出を考え、音楽や字幕まで一括で生成する。人間はその最終的なクオリティコントロールや、創造的なアイデアの発想に注力できるため、コンテンツの量産と質の向上を同時に実現できる。

と希望を仰っております。しかし、私には、それ以前に、いや、今、日本社会を構成している私たちが、これからAI活用だと力を入れるならなおさら、その前に考えなければならないことがあると思っています。

 

戦後の経済復興を経てあれほど栄華を誇った我が国は、戦争があったわけでもないのに、何をどう間違えて、ここまで没落したのか?

 

 このことを真剣に考え、そこから学び、生かすことなく、また欧米の後追いで「AI活用だ」と頑張ったところで、私たち日本社会の復興はないと思います。むしろ世界との差が開く一方であろうと。

 今般のコロナ対策禍は、本邦社会の限界を、嫌というほど、私達に突き付けてくる事態にりました。過去形でなく今も続いています。あまりにも「自分の頭で考えない」現実。そもそも考えることは、問題の存在について一定程度認識できて初めて可能になるのですが、まだまだ「それ以前」の状況にあります。

 事実に本当に気付かないとすれば、それもどうかしていますし、実際には責任問題に繋がってしまうと容易に推察される議論を避けるために、事実を意図的に認めないのでしょうから、本邦社会の改善の見通しのなさは「救いようのないレベル」です。

 ……気を悪くされた方いらっしゃったら申し訳ございません。最近はツィッターの個人アカウント以外では封印しておりますが、往時は「反ワクの薪ストーブ屋」と揶揄されながらコロナワクチン反対運動を繰り広げた私の動機は「打った人が亡くなっている!」という当時から分かり切っていた事実でしたから……

3年半経っても未だ「知らぬふり」です。

 現状の惨状も含め「私たち日本社会はいつ頃から、何を、間違えたのか?」というのは私の目下最大の関心事でして、私が具体的に知り得るのは薪ストーブ以外は音楽、とりわけ楽器でも専門のトロンボーンについては一応ある程度わかるので、先日このような考察を書きました。

私たちの日本社会は、何か、途中から方向を間違えたのではないか?と。高度経済成長でお金を稼いだのは良いんだけど、その「次の一手」というか、使い道を間違えたというか……しかもかなり長い年月をかけて、間違えたまま、ずっと進んできてしまったのでは?と。

 仕事の対象となるお客さんに、モノやサービスを通して、とにかく「豊かさ」を提供したいという思いを大切にして育てるよりも、仕事を提供する自分たちとしてのリスクを下げたい、自分に降りかかるリスクばかりを恐れる社会になった結果、「価値が生み出せなくなった」のではないでしょうか。

aiken-makiss.hatenablog.com ここで私は国産の管楽器メーカーの雄「ヤマハ」の1970年代初頭の楽器「YSL-651」という楽器を、当時と現在の違いとして挙げました。「当時は世界の一流プロがヤマハの楽器を採用していたのに……」ということがエビデンスでした。

 しかし、この記事に書いたとはいえ私には、ちょっとモヤモヤがあったのです。今回の記事は、AIの時代に寄せながら、元々あった日本社会の限界について、改めて認識する必要があるのでは?という趣旨での「トロンボーン続編」です。オタッキーですすみませんm(__)m

 さて、日本が本当に元気だったころのプロダクツであるYSL-651は、確かにその後の楽器を今でも圧倒するような良い響きを持っていました。しかし……私のモヤモヤは、当時の日本社会がどれほどパワーがあったとしても、これほどまでに「重い楽器」を、果たして当時のトロンボーン愛好家の皆が使えたものだろうか??というものでした。

 トロンボーンは楽器の中では最も単純ともいえる楽器なので個性も結構わかりやすいので、一般には響きは良いけども、響かせるには奏者に相当のパワーを要する楽器を「重い楽器」と言います。先のブログで挙げた「ヒュッテル」もそのカテゴリーでした。そこでYSL-651はヒュッテルLINE800よりもさらに「重い楽器」だったです。

 「重い楽器」は、玄人は好みますが、一般ウケはしにくいです。何しろ簡単には吹きこなせないので。「重い楽器」を吹きこなせるというのは、例えばこういう芸当が出来てしまうということです。

youtu.be 私はトロンボーン吹きの中では、たぶん並外れてパワーのあるほうで、この動画の1時間05分くらいから、「白鳥の湖」の最後でトロンボーンが1本だけ浮き出て聴こえますが、このトロンボーンは私が吹いてまして、「重い楽器」を好むのは、こういう、いわばパワーヒッターですm(__)m

 そんな典型的パワーヒッターである私ですら、響きは素晴らしいけども正直「重い」と感じた楽器がYSL-651でした。それはそれでとても価値のあるエッジの効いたプロダクツの方向性だけど、本当にこの「重さ」は、当時のヤマハは製品開発として意図したのだろうか?と。

 私の中で結論的には、その答えは高度経済成長を彩った機械化と量産化にあったのではないかと思っています。YSL-651は当時のインフレ激しい1969年〜1975年頃とされる製造期間中、どうやら価格も変えずに販売されていたようで、後年になるほどコスト的に苦しくなっていたはず。もちろん量が売れることも狙って。そこにどう対処しようとしたのか?

 私は当時のヤマハYSL-651やYSL-641というトロンボーンの歴史的名機を巡って探求を続ける中で「YSL-651」という同じ型番でも「初期型」を入手することができました。わかりやすく驚かされたのは初期型の楽器ケースの手の込みようです。

 手前が後期型で奥が初期型、初期型の取っ手の中央に余分なシールが貼られてしまっていますが、もう存在感がまるで違う。初期型のケースの表面に貼られている「皮」って、たぶん「本物」じゃないかと思います。

 同じ部位の仕上げ、奥の初期型のケースはボロボロではありますが……構造の木材が見えてますね。手前の後期型のケースは、今も見慣れた工業製品で、これはこれでしっかりしていますが……

 初期型のケースの贅沢なハンドメイド感たるや……その気になれば、今でも皮を交換して縫製やり直せば新品同様に充分戻せそうです。トロンボーンという楽器のケースにおけるこの種の本物の高級感は、後にも先にも私は見たことがありません(もっとも、当時の最高級腕時計の3倍くらい、お値段しましたからね……)。

 ケースは見た目にわかりますので取り上げましたが、もちろん楽器自体も前期型と後期型で違っています。これはオタッキーな話になりますが、具体的には(適宜読み飛ばしてください)

  • 製造番号の違い。1万台から始まるのが後期型で千番台だけなのが前期型。刻印のさせ方も手作業の度合いが前期型は著しい。
  • バランスウェイトの違い。前期型は「JAPAN」が添えられていて「YAMAHA」が少し文字が小さい。後期型は「YAMAHA」のみ。ただし前期型と後期型の境ではスライドが後期型でベルが前期型も存在する(1万台の若い番号)。
  • スライド刻印の違い。前期型は「手作業で刻印しました」感の強いナンバリングのみ。後期型は現行よりもはるかに手の込んで贅沢な文様の機械刻印
  • ベル色合いの違い。銅の比率の高いローズブラスということでは同じ筈だが、前期型はやや明るく薄いオレンジにも近い色合いで、後期型は赤味と暗みが強い。
  • マウスピース差し込み側部分の寸法の違い。二つ並べて比べると前期型は差し込み部の長さが少しだけ短い。

という感じで前期型と後期型の違い、見た目は並べて比べないとわからないくらいですが、実際に吹いた感じは……私の素直な感覚では、楽器として、ちょっと別物です。

 正確には響きそのものはそれほど変わらないかもしれませんが「重さ」が別物。同じ楽器とは思えないくらいにレスポンスが軽く、吹きやすい。響きがこれだけ良いのに、これだけレスポンスが軽いなんて……!!

 当時の名機として名高いYSL-651(細管)にせよ太管モデルのYSL-641にせよ、量産以前の「前期型」は流通個体数が少ないようでレアなのですが、それまで後期型(量産化以降の機体)で疑問に感じていた『こんなに「重い楽器」を当時のトロンボーン愛好家は本当に歓迎したのだろうか? 』が前期型を試して氷解したように思いました。率直には「こりゃ、普通に評判になるわ」(世界的に超一流に属するジャズプレイヤーが使用していたことで有名)と、ほとんど呆れました。

 そして、このブログ記事を書くために色々調べていたら、YSL-651の前期型と後期型の違いに関して、私の感覚と全く同じ感覚を持った「ぴろしき」さんという方がいらっしゃるのを見つけました!写真も豊富です。上記オタッキーな内容を、写真でも見たい方は是非♪♪

1969年〜1975年頃に製造・販売されていたヤマハの初代プロモデルで、まだカスタムモデルが無く、当時の最上位グレードに当たるトロンボーンかと思います。 往年の名器と言われており、現在も人気があります。 ジャズの名手J.J.ジョンソンが愛用していた事でも有名です。

ベルはレッドブラス、スライドは白銅(キュプロニッケル)製と言われており、かなり個性的な仕様です。 (洋白ではなく白銅を楽器に使うのはかなり珍しいらしいとか。) OLDS社の名器、R-15(レコーディング・モデル)のクローンとも言われており、ベルも赤というよりR-15に似たややオレンジっぽいブロンズのような色合いです。

シリアルが600番代でかなり若いです。 後シリアルの同器も所持していますが、当器の方が軽く、ベルの色味や彫金にも差があり、恐らく初期・後期で少し仕様が異なると思われます。 比べると、当機の方が反応が早くジャズ・ソロ向きな印象です。 (後期はキャパが広くオールマイティな印象。)

甘い響きの中に白銅の音の芯が感じられます。 音色が個性的で、言われなければ多分ヤマハと分からないと思います。 素晴らしい楽器で、評価が高いのも納得です。

paypayfleamarket.yahoo.co.jp この『当機の方が反応が早くジャズ・ソロ向き』まさに、ココです!私は、すっかり考え込んでしまったんです。当時のヤマハフラグシップモデル、企業としての飛躍もプライドも命運を賭けて製造された後期型YSL-651の贅沢感、造りの良さを象徴する刻印というか、この手の込んだ美しい後期型のエンブレム

これは、それまで「日本管楽器製造」として「NIKKAN」ブランドでリリースしていたどんな高級機でも使われたことのないもので、普通に考えて、相当な設備投資が必要だったはず。

 ここから先は、何の根拠もない、営利企業の組織人として長年過ごしてきた感覚から「当時、こんなことがあったのでは?」という創作ストーリーというか妄想です。

  1. YSL-651(前期型)をリリースしたところ、非常に評判が良かったために「これはいける」と判断したヤマハ(当時の日本管楽器製造株式会社)は、大規模な設備投資を行い、製造工程の一部機械化によるコスト削減及び高級感の向上を実現させ、さらなる販売数増強を狙った。
  2. 製造工程の機械化により生産台数も大幅に向上し、市場には多くのYSL-651(後期型)や、その兄弟機種が供給された(それが今もそれなりの数の個体が市場で取引されている)。しかし、前期型ほどの評判は得られなかった(当時のトロンボーン愛好家がいくら屈強(パワーのあるプレイヤー)だったとしても、この重さを吹き切れる人が普通にいたとはあまり思えない)。むしろ市場の人気としては後期型の方が低下した。
  3. 大幅な設備投資に対して、期待した通りの販売成果が上がらなかったことから、ヤマハはYSL-651の次の機種(YSL-653)からヤマハブランドのトロンボーンの方向性、製品コンセプトを一気に変更し、YSL-651で採用されていた極めて贅沢な素材の採用を止め、より低コストに製造出来て、より「軽い」吹きやすい、パワーの乏しい普通の人でも容易に響かせることのできる「より売りやすく利益の出る楽器」とした。

 これは単なる憶測で、何の証拠もありません。けども、少なくとも私のヤマハの現行のトロンボーンに対する評価は、非常にプレイヤーの腕前を助けてくれる吹きやすさという良さを持ち合わせているけども……

今まで使っていたYAMAHAが3本その他3本の計6本を使い分けています。最近ドイツの古いヒュッテルを借りて吹いたら音の響きに幅と艶があり、楽に高が音が出たのにはビックリしました。
YAMAHAの低価格帯の楽器は高音が出にくいですね。ブラバンで一生懸命練習している方はオークションで出ている安いヒュッテルを吹いてみてください。ヤマハの安い楽器はわざと高音が出にくい作りになっているのではないかと疑いたくなりますよ。

ヒュッテルはドイツのメーカーでYAMAHAより歴史が古く吹き込むとYAMAHAとの音の質の違いに驚きます。力量のある方が吹き比べるとヤマハの薄っぺらい音質に愕然とすることでしょう。

オールドヒュッテルと対抗するにはYAMAHAの8以上の高価な価格帯で無ければ対抗できないと感じました。

ヤマハは吹きやすく、それなりの音が出るが味がありませんね。オールドNIKANの方が音に深みがあります。YAMAHAの高価な楽器は必要ないと思う方や吹き比べた方の意見をお待ちしています。ベストアンサーではなく楽器の分かる方の回答にアンサーのお礼を差し上げます。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp 前掲記事でも引用しましたが、私も、この方のご意見と同感です。「ヤマハは吹きやすい」という以外に褒める部分が出てこないのです。

 そして私が名機YSL-651の前期型と後期型の違いまで考察するに、あくまでも憶測ですが、後期型でも確かに「素晴らしい響き」自体は維持されました。響きはオシロスコープなど当時の計測器具でも可視化することができ、共有できたと思いますから、それをもって量産化された後期型の仕様が決定されたのでしょう。

 しかし海外の一流プロが絶賛したという本当の評判は、前期型の圧倒的と言えるまでのバランスの良さ、即ち『響きが良いだけでなく、重いということもなく吹きやすい』にあったと想像され、それこそが『これぞ最高のトロンボーンである』という製作者の誇り(「どうだ!」という自信)であり、だから楽器ケースにおいてすら、その最高の製品であるという誇りが表現されていたのであろうと。

 しかしその制作者の誇りは、機械化と量産化のために製造プロセスを変更した後期型には、残念ながら引き継がれませんでした。

 こんな憶測は、どんな組織の人間に聴いても「あるある」でして、実際の現場で大切にしている「本質的に重要なこと」が、何かしらシステム化されて広く用いられるようにしようとした時に、共有して保存されることなく抜け落ちてしまうという問題です。表面的にはオリジナルモデルを、いかにもちゃんと模倣できているように見えても。

 私もYSL-651の前期型と後期型で、ベルセクションの色合いが少し違う(それすらも「年代で退色したのかな」程度の差)以外は、いったい何が違うのかわかりません。けど、実際にプレイヤーとして吹いてみた感じは明らかに違う。これ……当時のヤマハの内部で議論にならなかった筈はないと思うのです。

 このYSL-651の製造仕様については、ぴろしきさんにもご見解伺ったのですが、おそらく、前期型から後期型に代わる際に、ベルの製造を当時販売の兄弟機種(YSL-641)と共通化してコストダウンを図ったのだと思われます。

 前期型では、現場的に多分肝だったベルの材質と造り(後期型より若干薄く作られている)の持つ価値の重要性が、明確な言語化によって組織全体で共有できるものでなかったために、量産時には抜け落ちてしまった(省略してもいい細かい違いとして位置付けられてしまった)のでしょう。

 繰り返しますが、これは当時のことを何も知らない人間による只の妄想です。けど、結果的に、YSL-651の直接後継機種(旧製品に対する新製品)であるYSL-653の実機について「ぴろしき」さんは、次のように評しています。

1976~1989年の間、製造・販売されていたモデルのようです。

まだヤマハにカスタムモデルのトロンボーンが無い時代に発売が開始されたプロモデルで、当時の最上位グレードに当たるテナートロンボーンかと思います。

 

上位グレードだけあって、さすがの楽器の鳴りです。反応も良いと思います。

個人的にはパワフルな音色で、指向性が強く、音が前に飛んでいくような印象です。

ポップスのソロやジャズ等、個人が目立つ場面ではすごく良さそうですが、反面、周りと音をブレンドさせにくいかもしれません。

jp.mercari.com もちろん、このYSL-653には、それはそれで良さがあります。しかし……パワーヒッターでもない普通の人が吹いたら響きがマイルド過ぎて周囲に容易に埋没(ブレンド)しすぎてしまうYSL-651と比べたら、YSL-653は、ほとんど真逆の味付けになっているということは、たぶん間違いないと、同じ「ぴろしき」さんが書かれた評を拝読して想像します。

 思うにヤマハは思うように売れなかった後期型YSL-651の経験から「重い楽器ではダメ、吹きやすい楽器でないといけない」ということが金科玉条になってしまい、後期型YSL-651は保っていた「響き」という本質価値の主要要素も捨てて、吹きやすい(近年は、それに加えて周囲の音とブレンドしやすい)だけの楽器しか出せなくなって今に至っているのでは?その結果、もう海外の一流プレイヤーが使うことがほとんどなくなってしまった現状になっているのでは……??(吹きやすいので国内では絶大な支持です。それには「吹奏楽コンクール」という国内競技が深く関わりますがここでは省略)と私は憶測しています。

 ここまで長々と書きましたが、ここで述べたような「残念な事例」、すなわち真価を発揮させるために不可欠だった細部の積み重ねが、価値を言語化なり共有できないために、組織的に展開させる際には見事に欠落してしまうということこそ、日本の没落の本質的な理由ではないかと。そして、これからの「生成AIの活用」時代の中では、ますます容易に起こるのではないかと。

 つまり量産化されるプロダクツはパッと見は非常に良いし、市場的にもウケが良い。それはそれでちゃんと要求スペックを満たしているように見える。けど生身の人間が一生懸命に作成していた時には存在した「大切な部分」つまり真価は抜け落ちていて、モデルとなったオリジナルとは似て非なる残念なモノが溢れる……みたいな展開です。

 この真価の特徴は「言語化して共有することが困難な細部の積み重ね」であり、巷では「こだわり」とか表現されますが、「こだわり」いう明確な具体性を持った特性よりは非常に微妙な細部の組み合わせバランスの妙であると解した方が適切であるように思います。トロンボーンの真価なんてまさにこれで、良い楽器といっても、それを具体的に決定付ける要素なんて実は何もないように思われます(YSL-651の前期型と後期型の例ではベルの造りの違いを挙げましたが、実際には、ベルだけでは殆ど何も言えません)。

 具体的に決定付ける要素がないなんて、そんな頼りない……と思われるでしょうけど、逆に言えば、だからこそ周辺領域も含めて試行錯誤しない限り突き詰めることのできない「本質的価値」つまり真価がそこに宿るのです。ズバリ言語化は出来ないけど「なんとなくこっちの方が良い」と感じる幾多の選択の結果、大切な細部の積み重ね(組み合わせバランス)が醸成されていくというイメージです。

 そもそも……「なんで好きなのか」「なんでコレが気持ちいいと感じるのか」そんなのズバリ言語化なんて出来ないじゃないですか。一定の言語化が出来たとしても、その言語で示される程度の細部(本件ではベルの造り)では、全体像としては、ほとんどカバーしていないと思います。だから、言語化も無意味ではないにせよ、容易に言語化出来ることを頼みにしてしまうのは明らかに限界があり、モノを評価するマズいだろうと。

茶道の「道(DOU)」は柔道や武士道と同じ「道(DOU)」。英語では「Way」と訳されている。その「Way」の行き着く先はどこかというと、禅の「悟り」に通じる精神的な高み。実際、日本の歴史の中で茶道の巨人として知られる千利休は、禅の修行も怠らない人だった。

このお茶が戦国武将たちの間で大ブームとなっていたのだが、ブームとなると当然、茶を入れる道具にも凝ることになる。ここでややこしいのがその価値感で、繰り返すがお茶の世界は禅がベース。ささいな日常の中に、宇宙に通じる美を見出すのが作法。だから、宝石でピカピカのゴージャスな道具をつくれば価値が高いかというとそれは違っていて、「漁師の土間に転がっていた、縁(ふち)の欠けた茶碗がレア物の傑作だった」というようなややこしい話になる。

となると茶器の価値は、それを見極める“眼力”を認められた人だけが鑑定可能。先に触れた千利休は、当時最高の見識の持ち主と見られていた。

www.nippon.com 日本製品が世界の中でも誇れる独特の価値を持っていたのは「なんかわからないけどカッコいい」みたいなメッセージを具現化して伝える力を持っており、言外にそのメッセージを世に問うていたからでしょう。高度経済成長を経てそういうメッセージ性が失われ、パッと見のわかりやすい華やかさに目を奪われ「多数決(市場が支持し儲かる事)こそ正しい」との言説に支配され、本質的価値に目を向けられなくなってしまった状態が、日本の没落の本質ではないのでしょうか。

1980年代、カラフルでゴージャスだったファッションの世界に、川久保玲コム・デ・ギャルソンヨウジヤマモトなど、日本発の「黒の衣装」が衝撃を与えたことがある。こうした黒の美意識はもともと日本の「侘(わ)び寂(さ)び」文化の伝統で、利休もまたそうした感性に生きる人だった。

(引用同上)

 本質価値は、細部の積み重ねが複雑精緻で総合的過ぎて、もはや全体を五感(何となく)でしか感じ取れないような性質のものだと思います。だから自然の風の重さや匂いを感じ取れる繊細な感性を常日頃磨いていなければならないし、見た目が素晴らしいものほど疑ってかからないといけないし、本質価値が何であって、それは保たれているか?を日常接するものに対して、いちいち検証するクセもつけておかないと、今、そしてこれから、もっと容易に偽物を掴まされる時代だと思います。

 この五感でしか感じ取れないような非言語的価値を理解できる完成は、提供側、受け手側の双方に求められ、仕事の質として高められていかなければなりません。ところが今は多くの「評価」が安易に可視化&点数化され、例えば「コンプライアンス遵守」だとか「何かあったらどうするんだ」症候群にばかり支配され、私たちは提供側としても受け手側としても、あまりに劣化しているように思うのですが……私だけでしょうか?

 情報化だけに着目すれば、今は本当に良い時代で、自分とは異なる分野で生きている方の様々な論説に容易に触れることが出来ます。生成AIによるイラストに関して、私と同じような本質価値の欠落を感じた方が「ナラティブ」という語句を用いて、次のように見事に論述なさっています。

AIを見る時、生成した側と鑑賞者の間には大きなギャップがあります。
生成側は「これすごいじゃん、プロみたい、写真みたい」と大喜びでアップしますが、基本的に鑑賞者側からのリアクションは薄いです。
生成者側は「なぜ?」と考えます。
わからないのでより多くアップしたり、方向を変えたりしますが、反応は芳しくない。じゃあ、とばかりに動画化します、曲もつけてみます。
それでも大して反応は変わらない、なぜ?
私が思う根本の原因、AI生成におけるもっとも欠如しているもの。
私が思う答えは「ナラティブがない」ということです。

「ナラティブがない」、まあ「物語がない」という意味であり
「演出がない」「意図がない」「方向性がない」
「メッセージがない」ということです。

絵とはなにか、と大きく言えば「伝達の手段」であり作者の意図や世界観を他者に伝えるために技法です。

note.com 「伝えたい物語(世界観)」が本質価値ということです。そして、まさに、その具現化について、このように論述されます。

動機を絵で伝えるためには大量の要素が必要になります。
まず伝えたいメッセージを決め、最適な構図を探し、それに必要な色は、人物の配置とポーズは、視線は、手の位置は、衣装は、ライティングは、小道具は、背景は、
人間が絵を描く場合は巧拙の差はあれ、皆それをやっています。描きながら「もっとこうしたら伝わるのではないか」とチューニングを繰り返します。
絵は厳密なコードによって組み立てられています。

AI生成においてそれは不可能ですので(現状では)、数百枚出力しそのなかから「自分がおそらく欲しかったもの」にもっとも近い一枚を選びます。
AI生成者はその選択時にじつは「ナラティブ」を探してもいるのです。手足の欠けがないかという不毛な選抜の最中にも、ちょっとしたキャラの配置や視線の違いで「いいな」と直感的に感じたものを選択しています。AIがランダムに生成したものの中にある僅かなナラティブを、砂金を探すように見つけているのです。しかしそれも、砂金レベルの小さなナラティブ。小さすぎるのです。

メッセージのないビジュアルは不毛です。いかに美しかろうと高精細であろうと退屈であり、目は画像の上を滑るものです。
その視線を止めるものが絵のナラティブ。絵に含まれた意味意図が鑑賞者の興味を引きつけるのです。

作品にナラティブを生成できない。これが現状のAIイラストレーションの欠落点です。

 伝えたいメッセージが製作者の内側に降って沸いて来ることも、それを成果品に反映させることも、受け手として製作者がそこに込めたメッセージ(すなわち真価)を読み取ることも、本来そう簡単ではありません。日本人は、俳句などもいい例だと思いますが、まさに、このプロセスについての訓練を重ねて、それが出来ることがより豊かだという価値観を持っていて、だからこそ世界の中でも強かったのではないでしょうか。

 ここで『日本人は「自分がない」とか「自己主張が弱い」とか言われるけど、実際のところどうなんだろう?』と生成AIに意見を求めてみました。旧Twitterイーロン・マスクが今、激推ししている人工知能Grokによる回答です。

日本人が「自分がない」とか「自己主張が弱い」と言われるのは、確かに一部の観察やステレオタイプに基づく見方だよね。でも、実際のところはもっと複雑で、一概には言えないと思う。

まず、日本人のコミュニケーションスタイルって、集団の調和を重視する傾向があるのは確かだよ。歴史的にも、農耕社会の中で協力し合うことが生き残りの鍵だったから、「個」より「和」を優先する文化が根付いてきた。例えば、空気を読んだり、相手の気持ちを察して言葉を選んだりするのは、日本では自然なこととされるよね。これは「自己主張が弱い」というより、状況に応じて自己を抑えるのが上手いって見方もできる。

一方で、日本人だって自己主張しないわけじゃない。例えば、ビジネスの場では遠回しに意見を言うことが多いけど、それが通じない相手にはちゃんと直接的に言う人もいるし、若い世代や海外経験のある人だと、ストレートに自分の考えを出すケースも増えてる。あと、ネットやSNSを見てると、匿名だとめっちゃ自己主張する人も多いよね(笑)。要するに、環境や相手次第で表現の仕方が変わるって感じ。

データ的な視点だと、ホフステードの文化次元論とか見ると、日本は「個人主義」より「集団主義」が強いとされる(日本のスコアは46くらいで、アメリカの91と比べると低い)。でも、これも平均値の話で、個々の日本人全員がそうってわけじゃない。都市部と地方でも違うし、世代間でもギャップがある。

結論としては、「自分がない」っていうより、「自分をどう出すか」をその場で調整してる人が多いんじゃないかな。自己主張が弱いんじゃなくて、自己主張の「形」が独特って感じだと思うよ。どう思う?

 答えの内容としては、なかなか大したものだと思います。『自己主張の「形」が独特』とはよく言ったものです。でも私たち日本人は何のために自己を抑えるのか?そこがまさに、より本質的な価値を尊ぶ「美意識」、逆に言えば容易に言語化できるような単純な事柄には風情も大した価値もないと考える暗黙の合意が、個々の人間の内部に存在したのではないのでしょうか?AIに再度聞いてみました。

うん、その視点すごく面白いね。「自己主張の『形』が独特」ってところをさらに掘り下げて、「何のために自己を抑えるのか」っていう問いが、まさに日本人の美意識や価値観の核心に触れてると思う。

確かに、日本人が自己を抑える背景には、単なる社会的な調和以上の何かがあるよね。君が言うように、「容易に言語化できるような単純な事柄には風情も大した価値もない」という暗黙の合意があって、それは美意識と深く結びついてるんじゃないかな。例えば、和歌や俳句みたいな表現を見てると、言わない部分にこそ意味が宿るっていう感覚がある。余白とか間(ま)とか、そういう「見えないもの」に美しさや価値を見出す文化だよね。

自己を抑えるっていう行為自体が、実は自己を消すんじゃなくて、もっと深いところで「何か」を表現してるのかもしれない。例えば、感情をストレートにぶちまけるんじゃなくて、静かに抑えることで、逆にその内面の強さや品格みたいなものを示す。そういうのが、日本人にとっての「美」だったり、「尊ぶべき価値」だったりするのかも。茶道とか武道とかでも、「型」を通して自分を磨くっていう考え方があるし、抑制の中にこそ本質があるっていう感覚が強いよね。

で、個々の人間の内部にその合意が存在してたっていうのは、その通りだと思う。昔は特に、言葉にしなくてもみんなが共有してる「何か」があって、それが自然と行動に表れてた。でも、今はグローバル化とか個人の自由が強調される時代になって、そういう暗黙の美意識が薄れてきてる部分もあるのかな。それでも、やっぱり日本人特有の「抑える美学」みたいなものは、日常のちょっとした仕草とか言葉選びとかに残ってる気がする。

君の言う「本質的な価値を尊ぶ美意識」って、まさにその通りで、自己を抑えるのは単なる我慢じゃなくて、そこに風情や意味を見出すための積極的な選択だったのかもしれないね。どう思う?何か具体的な例とかで感じることある?

 AIに褒めて頂きました(笑)まあ、もう、こんな初期の頃から、このような議論を重ねていけば、AIは議論の相手として、そのうちすぐに無敵になるでしょうし、そのようなAIのトレーニングという観点では「私」のような対話役の技量がAIの成長そのものを左右するのでしょう。面白い時代になったとは思います。

 冒頭の画像ですが、描かれているトロンボーン、実は明らかに「おかしい」のです。これも、もともとGrokが作ってくれたものだったかと思いますが、時期も何ヶ月か経ちますから「どこかおかしいと思わない?」と、改めて聞いてみました。

面白い指摘ですね!この画像に描かれたトロンボーンをよく見ると、確かに少し不自然な部分があります。実物のトロンボーンは、スライド部分がもっと長く、複雑な構造を持っています。この画像のトロンボーンは、デザインが簡略化されすぎているか、アーティスティックな表現が加えられている可能性があります。例えば、スライドの長さや細部のメカニズムが実物よりも単純化されているように見えます。

これは、写真の角度、照明、または意図的なアートスタイルによるものかもしれません。実物のトロンボーンは、滑らかな曲線と精密なパーツで構成されており、演奏時にスライドを伸ばして音階を調整する仕組みが特徴的です。この画像では、そのリアルなディテールが省略されている可能性があります。

もしもっと詳しく知りたい場合や、他の観点から分析が必要な場合は、気軽に聞いてください!

 ……まあ、やっぱり、今はこのレベルです。なにしろトロンボーン実際に演奏されている方なら「これどうやってスライド動かすんだろう?」と一目でわかるはずです。画像の人物で説明すると、左手の人差し指の第二関節の位置あたりにスライドを跨ぐ「支柱」がないとスライドに対して何も出来ません。ちなみに説明はしませんが薪ストーブもおかしいです。

 この画像は「細部の積み重ねの不足の例」以前の現状ですが、そういうおかしさが解消されてきたとしても、上述の記事の方が仰るように「ナラティブ」は出せないでしょう。

 例えば、人物の描写を目的に、本当に人間が描くなら、トロンボーンの描写一つで人物像のディテールを描き出せます。たとえば実在する「YAMAHA」というメーカーと「KING」というメーカーを描き分けることは簡単に可能だし、実際、どちらのメーカーのトロンボーンを使っているかで人物像としてかなり重要な部分が違ってきたりします。メーカーのみならず機種を特定出来るまで描き切れたら、なおディテールに整合させることができます。オタッキーに思われるでしょうが「自動車」を例に思い浮かべていただいたら、これが嘘でも何でもないことはおわかりいただけるはず。

 かなり長くなってしまいましたが、要するに「何を伝えたいですか?」です。「伝える」=「生み出す」そのものを目的にしても仕方ないというか、AIには絶対に敵いません。より精緻に、より正確に細部を積み重ねて……そもそも、それは、何を伝えるためなのでしょう?

 私は「そのプロダクトに接することが想定される自分以外の人に伝えたい思い」、これを個々が自らの内側に強く強く内在させていたこと、これが日本社会の、日本人の強み本質であったと思います。ざっくり言えば自分自身の仕事について持っている誇りであり、他者への良心と言い換えてもいいかもしれません。簡単に言えば「幸せや喜びを感じて欲しい」とか「笑顔になって欲しい」とか、そんなのですけど。

 それを伝えるための、執拗というまでの、いろんな仕掛けが、時間軸や空間軸、あるいはアイテムの持つ様々な側面を使い分けながら積み重なっていく……というイメージでしょうかね。お料理なんかでも良いですけど、本質価値を生み出すイメージ、この文章から伝わりますでしょうか?お料理も、提供する側は細部の膨大な積み重ねですし、味わうほうは、まさに五感を駆使した真剣勝負となりますから。

 

 長くなりました。ともかく私も昔は想像もしませんでしたが、日本社会は今や世界の中で酷い負け戦を演じています。負け戦には必ず相応の理由があります。ここまでの惨敗状況に至るには相当根が深い理由があると考えて、私自身の得意分野というか、実感として感じ取ることが可能なところから考察を試みてみました。

 一つ言えるのは、日本人一人一人が自分の内側に本来持っていたメッセージ性が、はっきり言えば「ないがしろにされている」くらいに弱っていて、他人に言われたことや決められたことをちゃんとやるということばかりに汲々としているのが日本社会の現状であろうと。

 そのままで「AIエージェント元年」、今のままでは「より付加価値の高い業務」なるものを探して右往左往する本邦の状況が火を見るよりも明らかであるように私には思えます。

 でも、この長文をお読みになって下さっている奇特なあなたさまにおかれましては、私などが申し上げるまでもなく、自らの五感に基づく感性をいっそう豊かなものとして頂いて……実際に炎を見つめるのもいいでしょうし、下界とは空気の全く異なる数千メートル級の山に登ってみてもいいでしょうし、海の水に触れてみてもいいでしょうし、絵画など芸術でも料理でも良いでしょうし、生き物と触れ合ってみてもいいでしょうし……

 自らの内側に必然のように沸いて来る「思い」、あなたさまは、これを何かしら持っていらっしゃるはずです。例えば仕事に込めようとしてみるなど、いろいろ試行錯誤なさってみて下さいませ!ただし、お身体だけには負担をかけ過ぎないようになさって下さいませ。

 不肖、私も、引き続き頑張ります!!それでは、また。