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【2004年7月14日初出の個人記事アーカイブ】機械式時計に見る現代の幻想と現実をめぐる話

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【注釈;以下のエントリで引用していたBEKKOAMEインターネットの伝統的なWebサイトが、昨年秋に丸ごと消滅したので(正確には、月々400円程度払って維持してきたのですが、プラン消滅により相当高いプランに移行すれば維持できたのですが、そこまでは無理でした)、本日、少し時間の余裕が出来たので、こちらでそのまま復活させておくものです。15年以上前の私の文章のスタイルで、当ブログよりも、さらに1センテンスが長く、読みにくいかもしれませんが、当時、書いた本人が知らない間にすごく評判になっていて、長く読み継がれていた記事です。】

aiken-makiss.hatenablog.com

 

 今回は、ちょっとどうでもいい話を一つ。私は面倒くさがりで大雑把な性格なので、自分が着る物や身に付ける物についてはかなり無頓着だが、何故かいつも身に付ける腕時計については、高校生だった頃からと思うが、「機械式時計」と決めている。機械式時計とは、要はクオーツを電気によって振動させるではなく、テンプと言われる「振り子」をゼンマイにより振動させて時間をキープするもので、耳をつけると「チクチクチクチク・・・」と囁くように聞こえる。機械式時計にはロレックスやオメガのような誰もが知るブランド時計も含まれるが、商品名の違いのみならず、「チクチクチクチク・・・」のスピードの違いから、ロービートとかハイビートとか、ゼンマイを巻き上げる形式が自動巻き(オート)とか手巻きとか、そういう基本的な識別に加えて、もう少し厳密には「ムーブメント」が「キャリパー52系」みたいな「暗号」を基にゴチャゴチャ識別され、議論される。

 私はそのあたりまでは全然わからず、単に電池要らずの機械仕掛けというところに、理由もなく愛着を感じて、しかし、主には必死に作業している間に落として気が付かなかったとかで次々に紛失しつつも、旧国鉄の鉄道時計とか、縁のあった機械式時計をなんだかんだと使いつづけてきた。

 機械式時計は、確かに電池交換はいらないが、精度はクオーツの1ヶ月が機械式の1日に相当するぐらい(またはそれ以上)に狂うし、自動巻きにしろ手巻きにしろ、動力を供給し続けなければならないが、何と言っても「機械」なので、それがまた愛着のもとになる。ただ、長く使うのであれば、機械ゆえに油切れを起こしたりするので、何年かの間隔でオーバーホールをしなければならない。

 私がここ数年来、身に付けていた腕時計は、「フレデリックコンスタント」というスイスのメーカーの輸入品で、最近流行りの「スケルトンバック」、つまり、裏蓋が透けて内部の機械が見えるもので、最近は、復刻版などとして、国産メーカーから数万円程度の機械式時計も出ているのだが、それよりは造りが安っぽくなく、そこそこ安価に手に入れることができる少し品の良いオーソドックスな時計であることが気に入っていた。大学院生の頃に買った「初代」を仕事中に(実は、当時の環境庁ダンボール入りの重たい某書類を必死に運んでいる間に)紛失したので、確か、当時住んでいた栃木県からわざわざ新宿の東急ハンズまで出向いて、改めて購入したものである。最近、それがどうも調子が悪いというか、以前に比べて明らかに精度が落ちて、やたら進むようになったので、機械式時計のオーバーホールを自ら手がけることのできる時計屋を探して持ち込んだところから、このどうでもいい話は始まる。

 さて、皆さんには、いよいよどうでもいい事だろうが、世の中の大抵の時計屋は、電池交換ぐらいは自前でやってくれるが、こと、オーバーホール、しかも機械式時計のオーバーホールとなると、2級時計技師か何か忘れたが、そういう資格をでかでかと看板に挙げるか、あるいは無言で訴える「何か」があるか、早い話が、やや職人めいたところでないと「自前」ではやってくれない。大抵は「外注」、すなわちどこかへ送ってやってもらい、その外注料金に適当に上乗せしたものを客に請求することになっている。

 私は高校生だった頃から、そういう修理は、直接顔の見えるところでないと嫌だという感覚があったので、転居するたびに、自分の行動範囲内で、必ずそういう店を「発掘」することにしている。私が思うに、そういう店は人口数万人以上の街であれば何とか1軒ぐらいは生き残っているようで、雰囲気的に商売を棄てたような暗めの店構えと、使い込まれた工具などがやや無造作に置かれた木製の机がショーケースの裏側にあることなどによって、何となく識別できる。私は愛知県に来てから、「その時」のためにかねてから目をつけていた店に入って、案の定、ショーケースの裏側に座っている年季の入った少しふっくらとした髪の毛の薄い店主に声をかけた。

 

(店の中を見回しつつおもむろに)「すみません、機械式の腕時計のオーバーホールってできますかね?」

 

(「何者だ?」という視線を向けつつ)「…できるかって、あなた。そりゃできると言やぁ、できるけど…何だ?」

 

(腕から時計を外しつつ)「この時計なんですけど…。」

 

(一瞥して)「こんなん、やめときん。お金の無駄だで。」

 

(面食らって)「え?それは…できないってことですか?」


(あきれたように)「私ができるとかできんとか、そういう問題じゃなくて、こんなクシャクシャな時計、やったってしょうがないってこと!」


(唖然としつつも)「…いや、ちょっと、こういう機械式時計は、長く使おうと思ったら時々はオーバーホールしないとって、思ってるんだけど…。」


(たたみかけるように)「動いとるうちは別にいじらんでもいいって。動かんくなったら、その時持っといで。診てあげるから。」


(あっけにとられて)「…。」

 

 まるで取り合ってもらえなかったが、粘り強く質問を続けて、どういうことかを何とか聞き出すと、店主曰く、


「同じメガ時計(機械式時計のことをこういう)でも、例えばロレックスとか、バセロン(知らなかったが、とても高級な時計のメーカーらしい)などの時計と中身は全然違う。例えば安い機械は表面の仕上げもダメなので、油を注しても油が逃げていって話にならない。」

「以前は、トリクレントリクロロエチレンのこと。現在は地下水汚染でつとに有名)で洗浄する機械があって、それで洗えば材料表面が本当にきれいになって、軸受けの油が逃げんようになるけれど、そんな機械今時誰も持っとりゃせんで。今でも使っとったら身体は壊すかもしれんし、トリクレンだって、そんなもの棄てようがない。」

「最近は、あなたのようにメガ時計を使う人が増えているけど、そんなもの合うわけがない。例えば調節機能も、こんな安い機械ではヒゲ持ちの部分で調整するけど、ロレックスとかそういうものでは「ヒゲ持ちでは合わない」ということで、○○のところで(時計部品名称。私には憶えられない)こうやって(空に描いた大きな時計の調整部を動かすゼスチャーが入る)調整する。それでも精度なんて出るもんじゃない。こんな時計で精度を出せって言われても…。」

「この仕事を長くやっていると感じるんですが、メガ時計なんて、そんなもの合うはずがない。時計なんて、1000円で売っているクオーツを買って、壊れたらまた買えばいい。いくら高いメガ時計を買ったって、1000円のクオーツの方がずっと良く合うんだから!」

 

 という具合で、要は、「そんな無駄で、クレームがつくような仕事はやりたくない」ということであった。ただし、一見無茶苦茶なことをいうこの店主が、時計の機構の発展の歴史その他、学術的領域に近い部分については、実は大変詳しいことも、やりとりの中で同時にわかってきた。また、少し経歴を聞くと、成り行きとはいえ、結果的に当時のかなり正当な訓練を受け、某有名メーカーの修理部門からスカウトされるなど、仕事ぶりはそれなりに評価されてきたようで、自分の腕にはかなり覚えがあるらしい。

 確かに、機械職人にとって、世の中には「いじりたい機械」と「いじりたくない機械」が存在する。例えば私は大学時代にサイクリング同好会にいたので、少し自転車には詳しいが、同じ自転車でもいわゆる「ママチャリ」(これは全国共通で通じるのだろうか?)と、レース用とかツーリング用とされる「ちゃんとした」自転車に使われているパーツは、見かけは似ていても全くの別物で、はっきり言えば、ママチャリのパーツは「メンテナンス」や「修理」の対象にはほとんどなり得ない。そもそも材質が悪いので、すぐに要所が劣化して、修理しても全体的な性能の低下が避けられないなど、主に価格の問題だと思うのだが、とにかく長く乗れるようには作られていないのだ。だから、そんなママチャリの機械をいじってくれと言われても、いじり甲斐がない。同じ現象が、どうやら時計にもあるらしい。

 これも良く考えれば、確かに、同じ機械式時計でも、全く値段が違うものがある。安いものは数万円程度だが、少々良い物は数十万円の世界である。ここしばらく、機械式時計の再流行があったようで、セイコーシチズンなどからも「復刻版」その他の機械式時計が数万円で出されているが、一方で例えばセイコーには「グランドセイコー」みたいな、数十万円クラスのものもちゃんと存在している。何が違うのかといえば、やはり「その場限り」の機械と「長く使ってなんぼ」という機械の差なのかとも思う。

 しかし、結局店主は、なんだかんだ言いつつも、「そんなものちょっと調整してあげる」と、彼の言う「クシャクシャな時計」の裏蓋を開けて、調節機構をあれこれといじってくれた(誤差がすでに微調整の範囲を超えていたので、あの手この手でいじっている)。電池交換と同じ以上の手間がかかっているはずなので(正確にはそれだけの知識は誰でも持てるものではないので)、お金を払おうとすると「いらん」と言って頑として受け取らない。私は何となくこの店主が気になったので、その後も、この時計の調整の他、私が高校生だった頃に不相応に買った高価なクオーツ(クオーツの中でも精度がちょっと良い)が動かなくなっていたのを復活させる依頼など、何かと店を訪ねて店主と何度も話しているうちに、私自身も、現在の腕時計をめぐる戦略は、おおよそ次のようになっていると理解した。

 基本的に、現在主流のクオーツ時計は、特に最近のハイテクに支えられて、あらかじめ出来合いの回路に「入力された」情報をもとに、実用に足りるある程度の精度を維持できるようになっている。しかし、それは私が高校生だった頃に買った高価なクオーツ(といっても、確か5万円程度)の回路に比べると、精緻さははるかに及ばない。言葉で表現すれば、昔の時計のクオーツ振動が極めて安定しており、調節ネジを動かすことで、あるポイント(真中)にじわじわ近づけることができるのに対し、現行時計のクオーツ振動は、プラスとマイナスの「誤差の波」がやたらと大きい(「ずれ」を示す数値がオーダーぐらい大きく、短時間でコロコロ変わる)代わりに、差し引きして平均をとれば、だいたいうまく真中に来るようになっている。その「波」の大きさは昔の時計の調節範囲など軽く超える大きさで、必然的に調節ネジなどはついていない。

 一方、巷で売られている裏蓋スケルトンに代表される現代の機械式時計はどうかというと、これは「基本的にばらせるように作られていない」そうである。いざ、ばらそうとすると、接着剤で止めてある重要部品に行き当たったり、バネの部品が分解したら最後二度と収納できないのでは?というように組み付けられていたり、そもそも油が軸受け部などのポイントにまとまらず、「パーッ」と散ってしまうので、給油の効果が数年ももたないらしい(これが、一時普及したトリクロロエチレンによる洗浄装置を使えば何とかなったとのこと)。精度としては、新品のうちは確かにカタログスペックが出るようになっているそうだが、それは、新品のうち、つまり機械材料表面がきれいでちゃんと油がまとまり、稼動部が減っていないうちは良いが、しばらく経つと、バランスが崩れるそうで、そうなると、とても日差30秒などでは合わないという。「そこらへんのメガ時計なら日差2分ぐらいは我慢しろ」というのが店主の弁であった。

 さて、そうなると、世の「時計職人」というのは、どうなるのか。生産コストを下げるために、後から調整することや、分解掃除することをほとんど考慮されていない最近の時計の群れを前に、「やってられない」というのが一般的に本音らしい。特に、ユーザーからの修理依頼が、例えば大手の時計店を経由して持ち込まれた場合、ユーザーの支払う費用は大手の時計店に相当取られ、どうにもならない時計を実際に一生懸命どうにか修理した時計職人には、相場ギリギリの額が支払われるが、今度は「時計にこだわりのある」ユーザーから、特に精度やキズなどでクレームがつくことが日常茶飯事だそうで、大手の時計店はそのクレームを右から左で時計職人に「なんとかしろ」と持ち込むだけだそうである。店主曰く「精度が出るように作られていない時計はどうしょうもないし、全くキズをつけずに分解することだってできるわけがない。時計職人なんて、なるもんじゃない」とのことである。

 それに輪をかけるように「世間の人には仕事の良し悪しはわからない」一方、時計職人仲間では誰が腕が良いかははっきりしているそうで、「現代の名工」に選ばれた時計職人は、仲間内では「え?あいつが??あの程度の腕前で選ばれるんだったら・・・」という程度だそうで(ただし、その時計職人は、健康や廃溶剤の処理の問題からほとんどの時計職人が手放し、もはや保守部品も手に入らないトリクロロエチレンを用いる部品洗浄装置を、廃業する時計屋があれば飛んで行って装置を引き取るなど、相当頑張って維持運用しているとのこと)、ともかく、一般のお客さんに「修理の腕前」を認めてもらうためにはどうすればいいかというと、中身の修理を頑張るよりも「ケースを徹底的に磨くこと」だという。

 私にしてみれば「どこかで聞いたような話」である。近年の機械式時計の見直しというか、再流行により、若年層を中心に機械式時計を手にする人が増えてきた(つまり、関心の高まり)。私も含めて、何も知らないユーザーは、時計メーカーの保証する精度は簡単に達成され、また、オーバーホールに出せば、それはどんな時計屋に出しても、傷はつかずにピカピカのまま、精度や性能は淡々と維持されるものだと思っている。なにぶん、機械式時計そのものも、現代のクオーツなどに比べると決して安くはないし、オーバーホールにはそれなりの時間と、決して安くない費用がかかる。つまり、そういうユーザーの要望に応える体制は、社会的かつ普遍的に存在していると思っている。しかし、その内実は、表面的にはそうなっているが(現に、どこか小奇麗な時計屋で「オーバーホールをお願いします」と言えば、文句一つなく受け取られ、何もなく戻ってくるだろう)、その裏には、時計の修理という仕事そのものに真摯な腕の良い時計職人の困窮と、そういう人々の将来の先細りがあるということである。

 そのことを、さて、どうしようと言うわけではない。おそらく、似たような話は時計職人の世界に限らず、あちこちにあるのだろう。ただ、良い仕事が理解され、良い仕事をする人が活きる、少なくともバカバカしくなって腐らなくてすむ、そういう世の中に、ほんの少しでも近づいていってくれるといいと思う。そのためには、やはり、人と人、仕事を依頼する側と受ける側、お互いへの敬意と御礼という部分はマナーとして当然だが、その奥に潜む、誤解を招くために普段は口に出しづらい「問題」についても、お互いへの信頼に基づいて、可能な限り率直に話し合える関係が、色々な場面で構築されていくことを切に願う。今は安さに満足しても、将来的に「ユーザーの期待に実質的に応える良い仕事をする人」が失われていくのは、社会として決して望むところではないのだから。

 さて、このバカバカしい話には後日談がある。店主は「もう、あなたもメガ時計なんてやめときなさい。絶対合わんのだから」と合うたびに強く主張するわけだが、はい、そうですかと引き下がるほど素直な私ではない。私は大変な貧乏性なので(「もったいない」症候群)、可能な限り、モノを大切に長く使いたい。すなわち、それだけの愛着を持てるモノを持ちたい。「こんなクシャクシャな時計」と具体的にタネを明かされ、修理による復活も難しいと知らされた以上、これからも長く使い続ける時計としては「クシャクシャでない」時計にしたい。しかし、だからと言ってロレックスだの、そんなものを買う金はどこにもない。

 しかし、現代はとても便利になったもので、インターネットで少し調べれば、機械式時計の技術が円熟期にあり、クオーツにとって代わられる直前の1960年代後半から1970年代初頭にかけて、国産では具体的にどのような時計があり、それらはどのような特徴を持っていたのか、だいたいのことが分かる。私は、昔愛用するも紛失してしまった旧国鉄の機械式時計(「ホーマー」という時計)が時間も良く合って、タフで実用的な時計だったので、その製造元であったシチズンのラインナップを色々検討し、これまたインターネットのオークションで「クロノマスター」という時計を手に入れるに至った。「クロノマスター」にも色々なバリエーションがあるが、そこは調べて、各種便利機能はない代わり、ほとんど精度を確保することだけを考えて作られたような機種を選んだ。

 オークションで偶然出品されているのを見つけただけの「クロノマスター」は、当然中古で、今は動くけれど、以前のオーバーホールの履歴などは一切わからない。早速、件の店主のいる時計屋に足を運んだ。

 

(なんだ、あんたかという顔で)「前に渡した時計(彼のいうクシャクシャな時計。精度を悪くする原因が分かって応急処置は施した)はどう?まだ狂うかね?」

 

(やや神妙に)「いや、それは調子はいいんだけれど、今日は別の件で…。」

 

(忙しく他の客の時計をいじりながら)「なんだ?」

 

(おずおずと「クロノマスター」を差し出して)「おやじさんは機械式時計はもうやめとけと言うけど、これから、この時計を私のメインにしたいんだけど、ちょっと診てもらえないかな。油切れをおこしているかもしれない。」

 

(無言で手にとり、少し眺めた後、裏蓋を開ける。中身をいくつかの角度から眺めて確認して)「…確かに、これは油が切れとる。」

 

(たたみかけるように)「それじゃあ、油を注しといてもらえませんか?」

 

(淡々と)「そりゃかまわんが、それは分解掃除ってことだぞ?」

 

(さらにたたみかけるように)「はい。それでお願いします。」

 

(あっさりと)「それじゃあ、やっときます。しばらくしたら、また取りにおいで。」

 

 次の日の夕方、あらかじめ部品の発注をお願いしておいた、私の昔のクオーツ時計の調整回路の交換作業が終わるということで、店を訪れると、予想外に「クロノマスター」のオーバーホールも、すでに終わっていた。

 

(淡々と手渡しつつ)「あれからすぐにやったから。はい。ケースも磨いておいたから。」

 

(少しにやりとして)「ああ、すごく綺麗になってる…おやじさんも、少しは「いじり甲斐」があったでしょ?」

 

(少し笑いながら)「…これは良い機械だ。もし何かあったら、いつでも持っておいで。」

 

 「少し、進むようにしといたから」と言われたその時計は、現在、実使用の状態で、プラス側にわずか6秒程度の日差を維持して快調に動いている(オーバーホール前は日差20秒以上)。たった、それだけの話である。たかが腕時計一つの話なのだが、私にとっては何だか嬉しくなる話だったので、ここに長々と書いた。願わくば、もう後継者もいない高齢のおやじさんが、これからも元気で長く店を続けてくれますように。また、真面目で仕事そのものが好きな多くの「職人」が、少しでも仕事の喜びを多く感じることのできる世の中になりますように。

 

【復刻時後記;この記事は、私が当時住んでいた東三河の地方都市、蒲郡市の中心部に存在した実在の時計店での実際の話ですが、その後「この時計店を教えて」という問い合わせも多数いただいたのですが、残念ながら、もう、その時計店はありません。現在、もし愛知県内で依頼されるとすれば、刈谷市にある「ハヤ川時計舗」さんが、同等の腕前を出せるかと存じます。やはりご高齢ですが、まだ仕事をしっかりなさって頂けます。「犬山の、大屋という人から聞いた」と言って頂ければ「ああ、あの人か」となると思います……しかし、早川さんが仕事辞められたら、私も、一体誰に頼めばいいかしら………】

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